記憶

宇佐美りんの「推し、燃ゆ」を読んで重くなった目蓋を閉じながら電気を消したところまでは覚えていたが、すぐさま夢に移り主人公あかりの小説後の世界が勝手に描かれていた。目が覚めた時にすぐそれが夢だったと気づき、他人でもなければ実在もしない人の姿を想像していたと思うと少しおかしな気分になる。

夢から醒めた直後は、急に世界を見通せた気分になってくる。普段より少し明晰に物事を考えられるようになってすぐ、最近自分の周りの風景がぼやけて見えることについて書く気になった。

コロナ禍の直後は、まだもう少し世界がはっきり見えた。景色に曇が生じるというのは単にその対象を思い出せなくなるという意味ではなく(もちろんど忘れは度々あるが)、かつて触れていた対象と自分との感情的つながりが浮かび上がってこなくなるという経験である。昔は、目の前の祖母を見た時に、幼い時に思い出が蘇ってきた。しかし今は、祖母を見ても彼女とのそれなりに長く深い感情的なつながりについて思い出すことが難しくなっている。昔情熱を込めて書いていた論文を久しぶりに開くと、恥ずかしさよりもなぜこの論文に心血を注いだのか、わからない自分に驚くようになっている。忘れてもいいと思った記憶をどんどん捨てている気がしている。

しばらく一人で暮らしていたからなのかもしれないと、勝手に考えている。自分のこの半年の変化について誰かに相談しようと思っても、自分の変化を自分以上に観察していた人はおらず、その自分が自分の変化について鈍感である以上、私は久しぶりに会った人を前にして変わらない自分を演じ続けるほかない。しかし、何かが自分の中で変わっている。それが何か言語化できず放っておいたのだが、先ほど夢から醒めてそうやって言語化せずにいたら一生振り返ることはできないと思って重い腰を上げた。

今日他の人に言われて少し安心したのは、私は私が思っているように話しているということだった。中身がなくても、それらしいことを言っているように聞こえてしまう話し方。これは意図的に繕っているわけではなく、長く東大で周りと話す中で自然と身につけてしまった話法であり、それを相手は悪気もなく指摘してくれた。深い意味はなかったと思うのだが、これまでの記憶の揺れに不安を覚えていた自分にとって、過去の自分との連続性を認めてもらった気分になり小さな慰めになったのは間違いない。

人は刻々と変化している。これからは知識を身につけるだけではなく失うことも増えるだろう。身につけた知識への感じ方も変化している。日々見聞きした出来事への感想を時間に不変なものとみなさず、自分の中で変わりゆくものとして考える必要がある。