アメリカからシンガポールへの引越し

先日来、引越し関係の投稿が続いていますが、今回も例に漏れず引っ越しについて書きます。

ヤマトの集荷が引越しの約2週間前に終わり、ケンブリッジのアパートはだいぶ広く感じるようになりました。とはいっても、航空便から船便に変更したこともあり、当座必要な荷物は残し、シンガポール行きの飛行機に同乗させることにしました。

私は預け入れ荷物用の大きなスーツケースを一つ、機内持ち込み用のスーツケースを一つ持っているのですが、それらでは当然足りない量の荷物です。預け入れ荷物をできるだけ活用して、本なり服なりをシンガポールに送る必要があります。

預け入れ荷物の上限は二つだと思っていたのですが(搭乗するユナイテッドの予約詳細にもそのように書いてあるし)、よく読むとシンガポール便については預け入れ荷物が3つまで可能と書いてあり(では予約詳細の記述は一体なんなのだ)、さらにこの数年のマイル修行によってプレミアゴールドの会員資格を持っていたこともあり、荷物一つあたりの制限重量が23キロから32キロにアップしていました。

32キロの荷物 x 3 + 機内持ち込みと考えれば、「これはいけるのではないか?」という気持ちが芽生えてきます。そこでとった行動は、預け入れる荷物に入れるバッグの購入です。スーツケースだと高いので、できるだけ安価に、32キロの荷物を入れられるバッグを探すのは意外と難儀な作業でした。ここで、預け入れ荷物の制限には、重さ以外にも「三片合計62インチ」というものがあることに気づきました。そこでAmazonで「三片合計62インチ」の基準に当てはまる、できるだけ巨大なバッグを探したのですが、その過程で、三片合計の長さを所与とすると、容量が最大になるのは立方体である時という、小学校か中学校で習った知識を思い出すことになりました。というわけで、なかなか普段使いはできなさそうな巨大なボストンバッグを二つ購入し、荷物を入れていくことにしました。

出国数日前までは威勢がよかったのですが、荷造りも後半になるにつれて、徐々に「預け入れ荷物3つでは足りない」ことに気づき始めます。Amazonプライムも解約してしまっていたし、出国まで数日と差し迫っていた状況だったので、家にある別の巨大なトートバッグ(ただし購入したボストンバッグよりは小さい)を預け入れ荷物のスタメンに加えます。結果的にこのトートバッグを加えたことで、容量を重視してそこまで横幅のないボストンバッグを買ってしまったために入らなかったウルトラワイドモニターを入れることに成功しました。なお、預け入れ荷物を追加する場合には、ユナイテッドでは200ドルの追加料金がかかります。背に腹はかえられぬということで渋々払いましたが、直前に4つ目以降は重量制限が32キロではなく23キロであることに気づきます。というわけで、預け入れ荷物は32kgのスーツケース1つとボストンバッグ2つ、そして23キロのトートバッグ、プラス機内持ち込みのスーツケースとバッグパックというラインナップで出発することに、と言いたいところですが、しまいにはそれでも入り切らなくなり、小さめのトートバッグに荷物を入れて、ユナイテッドに甘く見てもらおうと考えるに至りました。

そして6月29日、出発の日です。ハーバードに滞在していた先生の車に乗せてもらって空港に行ったまではよかったのですが、まず驚いたのは、ローガン空港では荷物を乗せるカートが有料であるということでした。一台につき七ドルも取られます。苦労してユナイテッドのチェックインカウンターまで行くと(といっても、距離はたかだか10メートルほど)、荷物受けのおばさんがメーターで荷物を計るなりoversizedのタグを張り出します。私はこれを容量オーバーで追加料金が取られると勘違いしてしまい、もう一度計量してくれと言おうとしたのですが、これは単に通常の23キロよりも重い荷物であることを指すタグであることを理解するのに、押し問答の末、数分かかりました。というわけで、4つも荷物を預けるという人生初の経験をして、まずサンフランシスコに飛びました。

ファカルティハウジング

シンガポールに移るにあたって、どこに住むの?とよく聞かれます(まず聞かれるのが「いつ引っ越すの?」、住む場所はその次です。聞くことがないんでしょう)。私が働く大学では、一応ファカルティハウジングがあり、といっても大きなコンドミニアムの一部を所有しているという感じです。大学から徒歩15分程度の距離にあり、徒歩圏内にはオーチャードロードがあったり、アクセスは非常に良さそうです。

もともと、オファーレターにはhousing supplementが月S$1800渡されると書いてあり、当初民間のアパートも探していたのですが、その際には徒歩圏内で1B1Bの相場は3,500-4,000くらいかなと見積もっていたので、補助があるとだいぶ安く住める感じがします。ただ、結局ファカルティハウジングにしたのは、シンガポールの住宅市場が活発すぎて、数ヶ月前にコンタクトしても門前払いされるからです。エージェントの一人には引っ越す2-3週間くらい前になったら連絡してきてね〜と言われ、唖然としました。というわけで、シンガポール最初の住まいは、大学がアレンジしてくれるところに住む方が、色々と見通しがつきます。

ファカルティハウジングがあるからといっても、希望するファカルティ全員が住めるほどの数はないようで、申し込んだ当初はウェイトリストに入らされました。その後1ヶ月ほどして空きが出たということで(希望していた部屋とはエリアは微妙に違うけど間取りは似ている)1B1Bの部屋をアサインされました。家賃は月S$3,300(utilityは含まず)。マーケット価格ではS$3,800くらいが相場だったので、少し安い気もしますが、この家賃がhousing supplementを引いた値なのかはいまだに分かっていません(聞くのが面倒)。

部屋がアサインされたらあとはとんとん拍子で書類にサインして、その後アパートの担当の人から連絡がきて、どうやらアプリを使って管理をするらしいことがわかりました。例えば、大きな家具を搬入する際には3日前までにアプリを使ってマネジメントの人に連絡をする必要があるようです。理屈はわかりますが、この辺りの管理主義はアメリカとは違う気がします。

ヤマトの勘定、引越しの感情

職業柄、引越しを定期的にせざるを得ないのですが、今回はアメリカからシンガポールへの移動とあって、業者の選定に四苦八苦しました。アメリカ国内移動であれば、どこにでもあるU-Haulを利用するのですが、国際引越しになるとまた違う業者を調べる必要があります。

シンガポールの大学の同僚に相談したところ、彼らがアメリカからシンガポールに引っ越した時は、大概家具などは全て処分して、必要な荷物をダンボールで航空便で送った、と言われました。その方法で良いか、という思いが一瞬、頭をよぎったわけですが、私の場合、本が400冊近くあり、当初は思い入れのある家具も運びたいと考えていたので、UPSやFedexといった輸送業者ではなく、プロパーの引越し業者に依頼しようと思いました。

色々調べた結果、DHLをつかったthird party系の引越し業者が一番コスト的には安いことがわかったのですが、この手の業者はダンボールは自分で用意、税関関係書類も自分で用意と、基本的には「DIYでよろしく、運ぶ作業だけDHLを仲介して送ったるで」というサービスだったので(どこかに書いてありましたが、ではなぜDHLが引越しサービスをしないのか、疑問)、諸々忙しかった私は、であれば最初から最後までサポートしてくれる業者を探そうと考えました。

それで結果的に行き着いたのがヤマトと日本通運です。もう、知ってる業者ですね。日本通運は電話先の担当者のコミュニケーションが若干怪しく、しかも6月の集荷はすでにいっぱいだと言われてすぐ断念。ヤマトのマサチューセッツ事務所に電話すると、対応は日通よりも丁寧で、見積もりに来てくれることになりました。

そこで分かったのは、航空便だと1万5千ドル相当かかるという事実。家具なしにしても1万2千ドルという見積もりを出されて、シンガポールの大学から出されている予算(米ドル約9000)を超えてしまうことがわかりました。

どうにか料金を減らせないか試行錯誤したのですが、結果的に、結局ヤマトの船便にしました。船便はもともと3.5ヶ月程度かかると言われて、当初はその時間が気になったのですが、徐々に「そもそもシンガポールに夏休みの間いないじゃないか、私」「そもそも、400冊の本全てが今必要なわけではないよな」と考え直して、船便で我慢しようという判断に至りました(しかし、途中から3.5ヶ月ではなくて世界情勢が不透明なので4.5ヶ月かかると言われて、今後の行く末はすでに不安です)。

全体的にヤマトのサービスには満足しています。例えば、見積もりから集荷まで同じ人が担当してくれたのはよかったです。日本語ネイティブ、英語も流暢で、貴重な人材なのではないかと思います。なお、チップを渡そうとしたらお気持ちだけで問われたのは、とても日本風でした(代わりに水でも用意すればよかった)。

不満としては、その料金の高さと、見積額算定の不透明さになります。料金については、下げようと思えばできることはまだ多いはずです。例えば、ヤマトのガムテープは日本製で、そういうところでコストカットをしないから高いのかと思いました。一方で、ダンボールはメイン州製でした(分厚かった)。

料金算定の不透明さについては、集荷で以下のようなことがありました。集荷で運ばれた荷物に使ったダンボールは、渡されたダンボールより数箱、少なかったのですが、見積額と同じで、と言われ、であれば追加で費用がかかると言われたプリンストンに引っ越した時に指導教員から譲ってもらった机を忍ばせることができたんじゃないかと邪推してしまします。

また、ヤマトでは、見積もりの際には容積キロと実際の重さどちらか重い方で料金を取るようです。であれば集荷の時点で料金は言えないはずなのですが(トラックに入れる時に重さを計らない限り)。まあ、そのあたりがブラックボックスでも、駐在員家族メインのビジネスする限りは会社が出してくれるから、どんぶり勘定というか計算が若干不透明でも、何も言われないのかもしれません(ただ今後の行く末を考えると、果たして駐在員に頼り切りでアメリカでビジネスできるのかは若干?です)。

つべこべ書きましたが、最初から最後まで手伝ってくれるフルサービスは素晴らしい!

無視という名のボイコット

時効かなと思って書いておくと、昨年、とある雑誌に日本の大学の女子枠を批判する論文が出た。名前が出さないことにする。

色々と周りが騒がしかったので、重い腰を上げて読んでみたら、歴史的に女性が多い短大や専修学校を四大と一緒に高等教育と定義して、進学率で見れば男性の方が低いのだから、男性に対するDEIも検討が必要と言っていた。なかなか大層な主張をするものだと思って、そっと閉じた。

もちろん、歴史的な経緯を無視して四大と短大を混ぜて男性は少数派であるという主張は、極めてミスリーディングだと思ったわけだが、誰も読まない類のジャーナルに掲載されていたので、これは触れないほうがいいのだろうと見過ごしていた。その間、執筆者は査読付きを根拠に、自分の主張が科学的に認められたと、ソーシャルメディア上で喧伝していた。ますます関わらないほうが良いと思った。

その時点では、私と同様、この論文、というか執筆者当人とは関わらないほうがいいなと、おそらく高等教育とかジェンダーの専門家の中では、暗黙の合意が取れていたのではないか。そんなこんなで、スルーで通していたところ、とある女性科学者の方から問い合わせをもらった。内容としては、要するに論点を整理して反論したいので、助言が欲しいということだった。

その時点で当該論文はソーシャルメディア上でバズっていたし、一個人が反論してもかき消されるだけだろうから、私個人としては当該論文が掲載された雑誌に反論を寄せるのがよいのではないかと考えた。だが、その査読付き雑誌には、出版された論文に反論する機会が用意されていなかった。これはフェアではないと思った。その流れで編集委員の名前をみたところ、そもそも日本の専門家らしき人はおらず、短大と四大を混ぜて男性が過小であるという主張が、査読の段階で退けられなかった理由も納得の陣容だった。

結局手詰まりで、その反論は日の目を見なかった。私といえば、引き続きこれは無視が一番と考えて、それをしばらく続けてきた。

なぜこの話を盛り返したのか。昨今、AI論文が隆盛しているからか、出版社的にはセーフだが(例:エルゼビアやテイラー&フランシス)、「これ正直、いったい誰が読むの?」という感想を抱かざる得ないジャーナルから、あれやこれや査読の依頼が来るようになってしまった。

今までは善意で断っていた(さらには他に査読できそうな人まで紹介して)。しかし、ふと一年前のことを思い出して、そもそもこういう名ばかり査読のジャーナルが存在すること自体が、問題の一因なのではないかと思い始め、それ以来、私が勝手に「一体誰が読むの?系」と名付けたジャーナルからの査読依頼は、一律無視することにしている。

短期的には、専門家が査読したくない雑誌に、AI論文や主張にかなり無理のある論文が無秩序に掲載されて、科学の信頼性が汚染されるかもしれない。ある程度は時勢の流れなので仕方ないと思うほかないが、商業主義に走るジャーナル出版産業は、どこかで規制が必要になっていくのかもしれない。でも例えば、AIが専門家のように査読できるようになれば(もう実現しているのかもしれないが)、当該論文も世に出なかったのだろうか。ミスリーディングなエビデンスから導かれたサイエンスが氾濫することと、AIが専門家としてゲートキーピングすること、一体どちらのほうがよりディストピアらしいか。

とりあえず、今の私にできることは、無視という名のボイコットだけである(といいつつ、ブログを書く時点で無視ができていない)。

【後日談】

  • 聞いたこともないジャーナルからAI論文の査読を依頼されることに辟易している、というツィートをしたつもりが、いつの間にか大学入試の女子枠賛成論者に仕立て上げられていた(賛成とも反対とも一度も言ったことはない)。

  • 「短大や専門学校は高等教育ではない」とは書いていないのに、読みようによってはそう読めるという理由で、差別論者にされた。書いていないことから意味を見出す力に驚嘆する日々。

  • 「誰も読まない類の」ジャーナルという表現に対して、「私の論文は引用されています」と指摘された。「類」という言葉がついているから、ここでの「誰も読まない」が比喩だと解釈してもらえると思ったのだが、あいにくそうならなかった。結局、誰が読むかはわからないとはいえ、自分の経験や知識から「(自分の周りでは)読まれないだろう」と判断されるジャーナルは、研究者であれば多かれ少なかれ思い当たるのではないかと思う。

  • 公的にフェアな条件で批判することが難しい(これは、反論を掲載するにも多額の掲載料が必要なことも含みます)問題に反論したい、という声があったこと自体は重要。しかし、それを指摘するにも、取り巻きの厄介な人々に絡まれることで誹謗中傷に発展する可能性があったため、ほとぼりが冷めるまではこの話題には触れないほうがよいと考え、「時効」という言葉を使った(もっとも、結果的には誹謗中傷に時効はなかった)。「時効」というのは、取り巻きの誹謗中傷が「私刑」のように見えることへの比喩です。

  • ところがこの「時効」は、当人の在籍していた大学と私が無給の客員研究員(したがって何も影響力はない)として身を置いている大学が同じという理由で、私が批判するとアカハラとして申し立てられると私が懸念し、当人の籍が抜けるまで待った、という意味だとユニークに解釈された(なぜ論文に対する批判を含めた私見が、アカハラになるのかはよくわからない)。この点については、本来関係ない事象を結びつけて疑惑を作り上げる炎上系ユーチューバーの類と、やってることは変わらないような気がします。

  • 「エビデンスがミスリーディングである」という指摘は、そのエビデンスから導かれる主張そのものが誤りであることを必ずしも意味しません。ただし、ミスリーディングなエビデンスや、それを基にした論文を根拠に大きな主張を行い、非専門家を巻き込んで喧伝することには危惧があります。そして、それを指摘しようとすると、陰口、個人攻撃、アカハラと糾弾され、さらには「これだから社会学者はダメだ」「死ね」「クソ」といった言葉が投げつけられるといった次第。なお、この二つはリンクしていて、私の発言が陰口かどうかは受け手の解釈に委ねられる問題なので特に述べることはありませんが、そうした言説に乗じて私に対して「死ね」などと言う人が現れている以上、前者の発言をした人の名前は覚えておくことにします。

  • 以上のことをすべてまるっと飲み込んだ上で、批判は論理的に行うべきだという点には賛同します。ジンクスは作りたくないのですが、縁あって岩波書店から大学入試と公平性に関する新書を書くことになっているので、そこで議論しようと思っています。私は四年制大学のジェンダー格差に関心を持っているわけですが、それは高卒のジェンダー格差が重要でない、あるいは無視してよいという意味では、もちろんありません。高卒に男性が多いという点は他国でも注目されている現象ですし、この点については示唆的な指摘も得られたので、本に活かせると考えています。ちなみに、引用リプやリプライがおよそ500件あったとすると、そのうち示唆的だったものは15件ほどでした。

  • 結果的に、新書を書くためのコミットメント・デバイスを自分で生み出してしまった形になりました。あとはデジタルデトックスと、食欲の低下による体重減少。

調査の失敗から考える

ドイツの心理学系雑誌に論文を書きました。プリンストン大の同僚だったChristina Paoさんとの共著です。Paoさんの専門の一つはジェンダー・セクシュアリティ指標の測定で、数ある業績の中に、gradational gender scaleという、自分(ないし周りが考える自分)の男らしさ・女らしさ指標(ジェンダー表現)に関するものがあります。2023年くらいにそれに関する発表を聞いたときに、ちょうど東大社研SSJDAがオンライン調査の質問項目を公募していたので、日本サンプルに応用してみては?と提案して、代表性のある量的調査では日本で初めて、このスケールでジェンダー表現について質問しました。

doi.org

このスケールを使って、色々分析ができるかなと考えていたのですが、実際に調査してみると、無回答が多いことに気づきました。具体的には男性で「女性らしさ」、女性で「男性らしさ」といった「非典型」なジェンダー表現の場合に無回答が集中していて、およそ2割です。また、年齢や学歴などによって「非典型」な質問項目への無回答率も異なりました。

2割の無回答は、多いような気もするし、そんなもんかという気もするのですが、他の質問項目に比べると顕著に多いので、どうしたものかと考えあぐねていたところ、Paoさんから今回掲載に至った雑誌が、ジェンダーの測定に関する特集を組むということで、その公募の案内を送ってきてくれました。測定の雑誌なら正面から無回答を扱えるだろうということで、今回の論文の投稿に至りました。

実は、非典型なgradational gender scaleについては、日本だと「わからない」が多くなるのではないかという懸念は、調査をする前からあったのですが、とりあえずやってみようということでやってみて(調査はSSJDAがやってくれるので、タダだし)、そうしたら案の定、という展開でした。「男らしさ」「女らしさ」というジェンダー表現が二項対立ではなくグラデーショナルなのではないかというのは、そのとおりだと思うのですが、例えば男性自認の一般の人に「あなたの周りはあなたのことをどれくらい女らしいと思われていると思うか」と聞かれて、わからないと答えるのも無理はないのかなという気もしました。

ちなみに、アメリカなどと比べると、性自認と一致したジェンダー表現でも真ん中を答える人が多い(アメリカだと、男性ないし女性自認の人は男ないし女らしいと答える傾向)というのは、興味深い知見だと思います。もしかすると、日本と欧米だと「男らしさ」「女らしさ」の意味が違うのかもしれません。

というわけで、(予想通り)無回答が多くて若干「失敗」した感のある調査なのですが、他の社会で用いられてきた指標を導入する際には起こりうることかなと思いますし、無回答が多いことを記述的に報告するのも、研究の一部かなと思いますので、結果オーライということで考えています。

[参考] gradational gender scaleの聞き方 自分の考える男/女らしさ:一般的にいって,あなたは自分のことをどれだけ男らしい(女らしい)と思いますか。以下から当てはまるものを選んでください。 周りの考える自分の男/女らしさ:一般的にいって,あなたは周囲からどれだけ男らしい(女らしい)と思われていると思いますか。以下から当てはまるものを選んでください。

いずれも全くそう思わないから、とてもそう思うまでの7件法

Weird Japan

自分がアメリカに来て、もう8年近くなる。時がすぎるのは早いが、その頃と比べて、社会学の流行りも変わってきた。とくに、政治社会学の研究は増えたというか、注目を集めるようになった。俗っぽく言えば、政治社会学は、いますごくイケてる。もちろん、それは現実の世界で分極化が起こっているからというのが大きい。他方で、部分的には政治学の方法論的なテイストの変化も反映している気がする。つまり、政治学でインが推論革命が起こり、相対的に質的研究の地位が低下している。そうした状況の中で、政治学の質的研究と政治社会学が接近してきた。ハーバードの政治学部にも、シカゴ大で政治社会学をしていた人が就職していたりする。距離が近づくにつれて、従来の政治学だとあまり用いられてこなかった視点、例えば政治現象の文化的な側面、などが社会学の中で特に流行っている。

ともあれ、こうした研究は分極化を前提としているけれど、日本の政治環境は諸外国に比べると、その程度は弱いようにみえる。

昨年、所属するハーバードアカデミーが10年に一度行うリユニオンがあり、世界中からアラムナイが集まって、国際情勢を議論し合った。余談だが、何を議論しても、結局アメリカ政治、というよりトランプの話に帰着してしまい、一同苦笑せざるを得なかった。

議論の中で、民主主義の権威主義化(demogratic backsliding)の話をしていた際、日本政治の専門の人が立ち上がり、突如、日本政治はつまらないと言い始めた。最初は一同、何を言ってるんだろうとなったわけだが、その人が言いたかったのは、要するに日本の政治は他の民主主義で起こっているような分極化もそこまで起こっていなくて、政治学者としてはつまららない、という趣旨だった。これは私の推測だが、日本政治は比較の視点で見ると奇妙(weird)というか、政治学の今の流行に乗れていない、というニュアンスもあったかもしれない。

ただ、翻って考えると、つまらない政治というのは、意外と平和で悪くないのかもしれないとも思った。日本では(いまのところ)クーデターも起こらないし、排外主義者が首相になることもないし、選挙が不正だと訴える人もいない。もちろん、つまらないというのは悪いことではないという話で、問題がないわけではない。むしろ、問題は山積みである。それでも、その問題によって国が二分されるような自体にはなっていない。

これは自分のテイストの変化だが、日本にいる時からアメリカの博士課程の終わりくらいまでは、日本を一般的な理論の中に位置づけたい、そういう古典的な社会科学者っぽい志向性があった。ただ最近は、一見すると日本の超weirdな側面を掘り下げていくと、実は日本社会の真髄が見える気がしている。

そして、そういうweirdな側面はあくまで比較の中でしか見えてこない。どの社会と、あるいはどの側面から比較するかによって見え方は違うので、AIにも比較的代替されにくいのではないかと考えている。

なので最近は、社会学・人口学といった屋号は形式的なものと考え、比較の視点で日本のことを考える「比較日本学者」が落ち着きが良さそうと考えている。将来、テニュアを取ったら屋号を正式に変えたいところで、最終的にはweird Japan seminar seriesを開催したいくらいである。

台北からの帰りの機内で

先日まで、2泊3日の日程で台北に行っていた。私は基本的に学会などの帰りに簡単に観光をするくらいなのだが、あいにく台湾というのは、昨今の地政学的事情を反映してか、学会が開かれない。そういうこともあり、台湾に行く機会がなかったのだが、今回、年末にふとしたきっかけで先輩二人と台北に旅行することになった。

台北で買い物と食事を存分に楽しんだ後、帰りの飛行機で、私は来年度の就職先を決めた。人生における重要な決断というのは、嵐が過ぎ去ったあとの、ふとした瞬間に、直感的に決めることが多い。今回もそれだった。

もっとも、この決断に至るまでに数カ月を要した。ここまで悩んだのはなぜかといえば、3つの大学からオファーをもらったからだった。世界的にアカデミアにおける就活が厳しくなっていることを考えると、幸運に恵まれたといえる。

以下は、どのように就職先を決めたのか、その過程のメモである。

まず、個人的に一番大切だと考えたのは、就職先に対して、ポジティブな意味を見出せるかだった。

アメリカのアカデミアは以前のような隆盛を失いつつあるとはいえ、博士号を取ったプリンストン大学、あるいはポスドクをしたハーバード大学が世界的な研究の中心地であることには変わりない。幸いなことにそのような環境に身を置けた私からすると、最初の就職先は、多かれ少なかれこうした大学よりも「何かがない」ように感じてしまうところがあった。

このような思考に囚われていた私は、どうしてもプリンストンやハーバードにいた時とどれくらい似たような環境で研究できるかを考えていた。

後になって、この手の考え方は、社会科学でいう「欠如理論」、すなわちこれまでの「理論」が前提にしてきたような欧米社会をレファレンスとして、日本や東アジアの社会に欧米で見られるものがないのはなぜなのか、と考える傾向と似ていることに気づいた。

こうした欠如理論に対しては、むしろ日本にある特徴がなぜ欧米にないのか、という逆欠如理論ともいえるアプローチが提示されている。今回、就職先を選ぶに当たって、私も少し似たような考えをすることにした。すなわち、当該の大学が持つユニークな価値を積極的に評価していく、ということである。新しい職場でしかできないこと、そこに何かポジティブな意味を見出すことができれば、「AよりはB」という相対的な視点ではなく、より前向きに、移動する先を選べるのではないかと考えたのである。

もちろん、世界のトップ大学が典型的に持っているような特徴は存在し、それが新しい職場にないことで、自身の研究が何らかの影響を受けることはあるだろう。それらは具体的には、大学の評判・評価、より単純に言えば「名前が知られているか」といったものから、自身の研究テーマに近いセンターの存在、研究をサポートしてくれる環境、質の高い博士課程プログラムが存在するか、などである。このようなスタンダードなセットの有無は大学選びの際に非常に重要だが、それらはあくまで補足的なもので、個人的により高次にある価値は「そこに行きたい強い動機」の存在だと考えている。

なお、今回の決断に際して、大学や学部の魅力それ自体よりも、移動先の生活環境も考慮に入れる必要があった。新しい職場は、研究をする場所であると同時に、生活をする場所であるため、住み心地の良い場所を選ぶことも大切だからだ。具体的に考慮に入れたのは、気候から政治的な安定性、アメリカまでの距離、あるいは関連するものとして給料や住宅補助などである。テニュアトラックのジョブについては、テニュアを取るための審査基準がリーズナブルなのかも重要だった。

最後に、オファーをくれた大学が、自分をどのような研究者と考えていて、どのような役割を期待しているかも真剣に考慮した。これは私の好みの問題だと思うが、短くない時間をその大学で過ごすのであれば、自分を一番欲しい、必要としているところで研究者としてのキャリアを歩みたいと考えている。就職先を考えるなかで次第に思ったことは、「なぜその人が欲しいか」という動機が存在するためには、その大学や学部に、こういう研究者を取りたいという、しっかりとしたアジェンダが必要なのではないかという点だった。

これからお世話になる大学が、将来的にどのようになっていたいと考えているのか、そうした「プロジェクト」の有無は、個人的に気になるところである。もちろん、そんなアジェンダはない、というのも一つのアジェンダかと思うが、そういう職場は教員同士の研究もそこまで関係せず、個々の研究者が好きなことをするといった形になるのかもしれない。それも一つのスタイルだとは思うが、私個人としては、アジェンダの有無はその大学/学部が持つユニークな強みに繋がっていくと考えている。

以上を踏まえたうえで、今回はシンガポールの大学を選ぶことにした。シンガポールの大学を選んだ決め手は、(1)「自分を必要としている」と強く感じたこと、(2)私の研究を進めるために十分なサポートを約束してくれたこと、(3)テニュア審査基準が納得のいくものであること、そして(4)シンガポールという東南アジアにある、多様な社会に身を置くことを魅力的であると考えたからである。

(1)と(2)は関連しており、そもそも自分という研究者を評価してくれるから大学はオファーをくれるわけだが、その上でどのようなサポートをしてくれるかも、私に対する評価として考えた。もちろん、大学の制度上、なかなか目に見える形で評価を示すことが難しい場合もあるため、その点については今後の改善を期待したい。

(3)については、シンガポールの大学は私がすでに出版している研究もテニュア評価にカウントしてくれることが大きかった。今回、香港の大学も選択肢にあったのだが、その大学では、働き始めてから6年間の業績しかカウントされないのが、難しいところだった。また、香港の場合、香港政府が出しているグラントを獲得することがテニュアの必要条件だったことも、判断に影響した。

(4)については、まずジョブトークの際にシンガポールを訪れて、60年ほど前に人口200万人の状態で、特に目立った産業がないシンガポールが、世界的もっとも豊かな国の一つになったことを率直に不思議に感じた。また、その背景にあるメリトクラティックな選抜制度の功罪を考えることに興味をそそられた。さらにいえば、私自身「アジアの人口学」をやっていると標榜しながら、実質的に扱うのは(少子化が激しいということもあるが)「東アジアの人口学」だったことに、どこか居心地の悪さを感じていた。シンガポールに身を置くことで、これまで殆ど知らなかった東南アジアについて見聞を深め、今後進めたいと考えている比較人口学的な研究に活かしていきたいと思うようになった。香港も多様な社会だが、趨勢的にはますます中国化が進んでいるため、研究者や学生の研究関心も、中国社会が中心になっている点は、多様性という意味ではシンガポールに分があると判断する根拠となった。

実は、複数のシニアの教員からは、シンガポールよりも香港の大学を勧められることが多かった。香港の大学のほうが世界的に知られていることも理由にはあるが、それに伴って在籍する教員の研究の質や、複数存在するセンターによって可能になるネットワーキングの魅力を過小評価してはいけないというアドバイスだった。これは非常にもっともな視点である。というか、シニアの研究者は往々にして「もっともな」ことしか言わない。

また、シニアの研究者が原則として共有してくれるのは、10年後になりたい研究者を想像して、それになるために一番近い道は何かを考える、というアドバイスである。これは本当にそのとおりだと思う一方で、このご時世、10年後の自分、というより10年後の世界がどうなっているのか、想像することはますます難しくなっているのも事実である。10年後のなりたい自分に縛られるよりも、今の自分が一番正しいと思った選択をしたいと考えるようになった。

今回の決断が正しい選択だったのかは、まだよくわからない。これからも折に触れて、間違った選択をしたのかもしれないと考えることはあるだろう。10年後になっても、今回の決断の正しさは判断できない気がしている。それでも、今回の決断はこの2ヶ月の間、各大学の関係者、シニアの研究者、アカデミアに身を置く同僚、個人的に親しくしている友人・知人、本当に多くの人と話して決めたことである。現時点の自分ができる、納得の行く判断ができたのではないかと考えている。